人生の意味
昨日は無性に寂しいというか、虚しいというか、感傷的な気分だった。
寝る前に下の動画を見て、涙が流れるくらいには感傷的だった
https://www.youtube.com/watch?v=RdtM8kkfuWk
羽を怪我した蜂が、仲間のために働く最後は死ぬ。
たかが、蜂なんだけれども、なんだかすごく悲しくて泣いてしまった。
だからなのか、生きる意味について今日はすごく考えてしまった。
そして自分という特別な自我についても考えた。
今日一日思考を働かせて落ち着いた結論は、
生きている意味などない。
である。
人の生は等しく無価値なのである。
そして、さらにいうならば自我っていうものは現象論的な脳が見せる錯覚にすぎないという結論である。
この考え方についてもちろん感情的な反論はあるだろうが、僕自身は極端な考え方をしているという感覚はなく、実はしっくりと来ている。
だから、少し落ち着いている。そして、今はなぜ生きるのかなんてことの考えについては結論づいたなと思っている。
しかし、人生は無価値だな。よし、死にましょうっていう話ではない。
もう少し馬鹿になろうっていう話である。
もう、悩むのはよそう。
僕は幸せになりたい。
その過程で、人生の意味について考えた。そして、結論づいたんだから、もうそれについては終わりだ。もっと、楽しく生きることを考えようという話である。
現実逃避でもない、真実に目を向けることができたら、それはそれで幸せではないかっていうことだ。
…
なぜ、人は死ぬのか。
死んでしまえばすべてが無に帰すことはわかるし、そうなるとやはり生きているすべては無駄ではないか?
いや、もちろん反論はかってだが、僕はやっぱり価値がないと思う。
僕たちは人間っていう選ばた存在だという思い込みこそが、よく考えればおかしい。
あまりにも恵まれた僕たちは、勝手に自分の人生に意味があるもんだと思い込んでいるだけ。
物理を勉強していて、精神なんてよくわからないものに取り組むことなんてない。
いつだって、物質は物質だ。
人間だって、物質の塊にすぎない。
そういう風に物理的にアプローチをしていけば、恐ろしい結論が出る。
精神は元をただせば脳の反応により、脳自体はただの物質だ。ということ。
つまりは、精神なんてものは存在しない。物質なら存在する。
錯覚だ。
存在するなら、幽霊を見つけてきてくれ。
物理は無常に現象論でつきはなす。
もちろん、他にも解釈は可能だけれども、
物理というのはそもそもが現象論だ。何かがわかっているわけではない。
ただ、説明のつくモデルを考えていき、最終的には基本的には世界の物理法則が簡単な原理で説明されていく。
その過程を見ていくと、しょうもないのだ。
だれにも説明がつかず、やはり神の存在が否定できないっていう風になればおもしろいが、今のところどんどん数式で解明されていく。
結局、そんな風に考えていくと、人間なんてものが特別なものではないっていう考えにたどりついたこと。
っていうか、動物だ。一言でいうと
…
しかし、それでいいのだ。
自我っていうものがただの複雑な脳の仕組みによる錯覚だとしても、人生の価値が無価値でもそれでもいいのだ。
そもそも、僕が蜂としての自我をもっていたとしても、犬だったり、もしくは新垣結衣ちゃんだったり、そんな可能性さえあったんだと思う。
とにかく、なにが言いたいかというと。
答えは出たんだ。だから、もうどうでもいいから楽しもう。
しょせん自我なんて現象論さ。
ってこと。
現実逃避をして自分にこもればこもるほど、現実っていうものにぶち当たる。
人生とはなにか。意味はあるのかっていう風に
ある意味、さらなる現実逃避に向かうだけだ。
人生を楽しんで、夢中になって一瞬で死ぬ。それが幸せなのかな。
以上
今日の成長
人生の意味についてわかった。