茶番と発達障害と合理性
発達障害者のかたのブログから学んだこと
とりあえず、ブログを読んでほしい。
で、その感想なんだけど、正直共感しかなかった。就活って茶番だよね、人生って茶番ばっかだよねという話である
で、一昨日思考の癖が近い人からしか学ぶことはできないと書いたんだけど、それについて言語化するというのが今日の内容である。
結論から言うと。
合理性というのは発達してないものほど高いのではないかということ。
発達段階の違うもの同士でわかりあうことが不可能ではないかということ。
発達してないものほど、人生において合理性を感じれず、茶番である感じる機会が多いのではないかということ。
正直、発達障害とはなにかとか詳しく理解しているわけではないので。そこらへんのニュアンスは適当ですが、
で。
僕が思う発達というのは、野生動物から人間に近づく過程であると思います。
サイコパスと呼ばれる人たち野生に近い例であり
共感性の高い女であったり、一般的な茶番を演じる人たちが人間であると思います。
茶番を演じているという表現については上のブログから借りたいと思います。
では、どんな人が発達が遅く、どんな人が発達が高いのでしょうか
合理的理由があれば人を殺していいのか
というタイトルで質問を投げかけたとします。
それに対する返答で場合分けをしてみます。
1
人を殺していけない理由が全くないと思う人
社会的な合理性だけでなく、個人的な合理性に基づいて人を殺してもいいと考える人
例えば、ばれずに人を殺せて金がはいるならできる人
おそらく少数派だと思われます。
2 感情論でどんな場合にも人を殺してはいけないと思う人
死刑制度について反対している人がこの人たちであると思います。
例えば、シーシェパードであったり。
食べ物を普段食べているのに、実際、人が何かを殺して食べているのを見るとかわいそうといって責める人
世の中でみかける人たちですね。結構目立つイメージです。
3
個人的合理性では殺せないが、社会的合理性において殺せる人
僕が所属しているのはこちらです
中間的に、確かに殺人はだめだと思うし、モラルに反する、心理的に殺せないと思う、だけれども、理由付けによっては殺せる。
合理的であろうとしているが、結局感情的に合理的になれない人。
世の中の人は上の3パターンに分かれると思います。
こんな風に考えていくと、
結局合理性なんてものは
その人がどんだけ発達しているのか。感情的な面を捨てられるのか。世の中で常識と呼ばれるものから束縛されずに考えられるか。それだけのことだと思います。
韓国では、犬が食べられるそうですが、それを見てかわいそうという人を笑う僕自身が、犬を殺せといわれるとかわいそうでできない。
とにかく、人間である以上、世間的にいままで植え付けられてきたものから逃れることはできません。常識であったり、茶番であったり。
そういう茶番に気づく力というのは、発達段階に応じて場合分けされるのではないか。
茶番と気づいた上でそれを笑う素質は人間である限りないのではないか。
結局、人間は、同じ合理性を持つ者同士でしか分かり合えないのではないか。
と思いました
ということで、最初の発達段階に応じて、人はそれぞれのグループの人からしか学ぶことができないということの理由について言語化できたと思うので今日はこれぐらいで終わりにしたいと思います。
もちろん、上の考え方はすごく適当ですが、そういう風に考えると自分について楽になれるような気がします。
結局合理性なんてものは、人間である限り、限度があり、合理的であることがすばらしいものでもないし、それぞれで邪魔をしあわなければいいなと思いました。
人生で茶番が多いなと思う人、周りと違うなんて悩みは、自分の発達段階が周りとちがうだけでそのかわり合理的になっているんじゃないかなと思います。
ある意味、メリットでもあると思います
できれば、ひとことでも感想などあれば、もらえるとうれしいです。
以上
今日の成長
人間は3つのグループに分かれていると思う、自分は発達するのではなく成長が目的だから、発達してないことに不安になる必要はないと思う。。